私の頭の中のハサミ
みなさま、いかがおすごしですか?
今日、ふ、と思いだしたことがあった。
あれは何歳のことだったか、忘れてしまったけれど、
多分小学生も低学年くらいのころだ。いや、もう少し大きかったかな…。
お庭にプールがある、と私が友人に話をしたら、行きたい、というので
招いたら、なんだか友人の様子がおかしかった、ということが
あった。
何年後かして、彼女はこの時のことを笑い話にして、
実はね、と話してくれたのだ。
あの時、プールがあるからといわれて行ったけれど、
ただのビニールプールでどうしていいかわからなかった、
もっと大きなプールだと思って行ったのに、
ということだった。
少女の私の話が過大だったのだろうか。
今になって思えば、彼女たちの家の庭は、私の家の庭より
何倍も大きかった。
当時の彼女たちの基準で考えれば、私の話の中に出てきた”お庭”は
自宅のお庭相当か、あるいはそれまでに彼女たちが目にしてきた
大きいお庭をイメージするだろうし、
プールと言われて、小さな家庭用のビニールプールをイメージする
には難しいほどお姉さんになっていたのだろう。
なるほどそれであの時友人たちは、“想像していたプールと違う”と
思い、様子がおかしかったわけだ。
裏を返せば、大きなプールがおうちにあるように見えるほど、
私はお嬢様に見えた、ということなのか。であれば、光栄だ。
ということで、そういうことにしておこう。
常々思うけれど、自分が知らないことを想像するのは非常に難儀である。
その点、私は、さまざまな喜怒哀楽を幼いころから経験してきたと自負しているし、
他人の気持ちを想像するということがあまり苦ではない方だと思う。
そして、数々のお恥ずかしい失敗も経験してきている。
朝の体力作りの時間で、とある体操をしたところ、私だけ自爆して大量の鼻血、
それ以降その体操は二度と体力作りの時間で為されなくなったこと、
(失敗というよりむしろ、いいことをした?)
椿山荘を”つばきさんそう”と長い間呼んでいたこと、
(失敗なのか?)
スクール水着に穴があいたまま授業に出ていたこと、
登校の時間帯、数十メートル前方に友人を見つけ、数十メートル前方から
友人の名前を大音声で連呼しながら走り寄るも、全くの別人で、
連呼しながらその先まで全速力で走るしか術がなかったこと、
最寄駅について定期を忘れたことに気づいて、
遅刻するくらいなら半休にしてしまえ、と半休したこと、
自転車で信号のない横断歩道を横断中、前輪に自分の傘が絡まって、
横断歩道とはいえ、道路のど真ん中で自転車ごと転び、
籠の中の荷物をあたりにぶちまけた上に、渋滞を引き起こしたこと、
(あの時傍観していただけの女を私は忘れない)
そんな失敗の経験があるからこそ、
悪い予感を感じることができるし、
更なる失敗を避けて命拾いすることもある。
失敗も大事な学習なのだな、と今では失敗に感謝できるようになった。
成長してるね、私。