旧い友人のてっちゃんが他界していた。
“他界していた” というくらいなので、なんだかんだと会わずにここまで来てしまった旧い友人だ。最後に会ったのは、1996年の3月だったと記憶している。
箸が転げてもおかしかった、ちょっと頭がぶっとんでた14歳の頃、同じクラスで馬鹿やったり、切磋琢磨しあった友だった。
クールな振りして、心の中には熱いものをもった人だった。
たまに思い出すこともあるくらい、私の青春時代に色を添えてくれた友人だった。
“いつかまた同窓会で会えるかな”
そう悠長なことを考えていた私が甘かった。
別れは突然で無言だ。
心積もりをさせてくれることなど稀である。
後悔先に立たず、とは過人もまたうまいことを言ったものだ。
後悔はなぜしてしまうのか。
自分がどうしたいのか見失っているからではないのか。
社会で生きるには、自分以外の他人が存在する。
人にまみれて、他人ありきの自分にフォーカスしてしまう。
傷つけあったりすることも日常茶飯事。
人を傷つけたり、あるいは自分が傷つくのが怖くて、自分以外の他人と接するのに、我慢をすることも多い。
この我慢がくせもので、
我慢を続けるとどうなるのか。
次第に”本当は自分がどうしたいのか”がわからなくなる。
そして自分の取り扱いの説明という権利を放棄した結果、自分の中の自分と周りから見える自分の乖離が激しくなり、自己嫌悪が進む。ご飯は進まない。
こうやって自分は失われていく。
後悔しないにはどうすればいいのか。
自分を見失わないことだ。
大切にすればいい。
自分を大切にするとはどういうことなのか。
自分で自分の気持ちをわかってあげること、その気持ちを認めてあげること、
時にはなぐさめてあげること、
時にはほめてあげること、
自分に愛を注ぐこと。
こういうことは他人に期待せずに自分ですることなんだろう。
自分のお尻は自分で拭くの。
自分を大切にすることがわかると、
大切にしたい人ができた時、自分の気持ちを
伝えようとする努力、相手の気持ちを理解しようとする努力がきちんと、できるのではなかろうか。
こうやって本当の愛は育まれるのかもしれない。
友、というのは亡くなっても尚色々と教えてくれるものです。
てっちゃん、ありがとう。
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